星影仄か



ザッと音を立てて目の前を遮った人影に、ゆったりと旅路を楽しんでいた
家族連れが足を止めた。


「新選組の沖田だなっ!」

最初からこちらの返答など聞く気もないらしく、スラリと白刃を抜き連れる男達の数は三人。

「はぁ・・・私、あんまり調子が良くないんですけどねぇ・・・」

総司はつくづく嫌そうに首を振りながら、隣にいた妻にチラリと視線を向けた。
数間先からぷんぷんと振り撒かれる殺気に反応していたその女子は、既に腕の中に
抱いていたはずの幼子を背後の女性に預け、懐から出したらしい見慣れた紐で
凛々しく着物の袂をたくし上げていた。

「・・・どうして貴女がタスキなんて持っているんですよぅ・・・」

呆れ混じりな総司の声など聞こえないようにセイが手を差し出した。

「もう・・・すっかりその気なんですから」

溜息と共に腰から脇差を抜いてセイに預ける。
どうせ何を言おうとこの妻が聞きはしない事など、誰よりよく知っているし、
このような場で大人しくなどしていられない人なのだから仕方が無い。


「くれぐれも無茶はしないでくださいよ」

それでも一言釘を刺したくなるのは自分が心配性だからではないはずだ。

「判ってますよ。でも・・・やっぱり重いですねぇ、脇差なのに」

「貴女の大刀と大差無いと思いますけど?」

「そりゃそうですけれど・・・何だか悔しいじゃないですか」

鞘から抜いた手の中の脇差を軽く振りながら不満げにぶつぶつ言っている姿は、
先程までの初々しい若妻の風情などどこにも見られない。
炯炯と輝く瞳は女子の甘やかさをすっかり払拭して、既にその身の本質と
なっているのだろう“新選組の阿修羅”を取り戻している。

こういう時のセイの姿は好きだけれど嫌いだな、と総司が胸の中で零した。


「どうでもええけど、向こうのおっちゃん達が臍曲げてるで」

里乃と幼子を庇うようにその前に立っていた正一が総司に声をかけた。
確かに斬り合いを目前にしながら緊張感の欠片も無い会話を見せられていれば
相手にしても怒りの度合いが増すというものだ。
仕方ないな、と総司も大刀を抜き放った。

「ひとり、お願いしますね」

命の遣り取りの場となれば、普段飄々としているこの男にしても様子が変わる。

「承知!」

懐かしい返答に唇の端を吊り上げながら、向かってくる白刃の中に走りこんだ。





「しっかし阿呆やな、あのおっちゃん達。新選組の鬼神と阿修羅を相手に
 三人ばかしで勝てる思うとったんやろか」

呆れとも感心とも言える口調で正一が呟く。
その言葉通り、総司ひとりが相手だと甘く見ていた男達は数合も打ち合う暇無く
地べたに這う事となり、駆けつけた役人に引き立てられていった。
死人を出すまでも無く戦闘力を削げた程、実力の違いは明らかだったのだ。

「けど、おセイちゃんは相変わらずやねぇ」

「ほんまや。兄ちゃんやった頃と何も変わらんと、えらい強いなぁ」

里乃の呆れ交じりの言葉と正一の賞賛のこもった言葉にセイが苦笑する。

「総司様や隊の皆が時間を見ては相手をしてくださるからですよ。
 それでも昔に比べたらやっぱり腕は落ちてます」

ね? と総司に視線を向けるとどこかボンヤリしながら腕の中の祐太をあやしている。

「総司様?」

小さくかけられたセイの声に気づいた総司が、祐太を渡すと腰を上げた。

「先にお風呂を貰ってきますね。正坊も一緒に入りますか?」

威勢の良い返事と共に立ち上がった正一と共に部屋を出る後姿には
どことなく力が無いように思えて、セイと里乃が首を傾げた。

「やっぱり具合が悪いんやろか」

「うん・・・ここ数日は本格的に身体も重そうだったしね」

「少しでもゆっくりできたらええね」

里乃の言葉にセイが頷いた。




前年、出産の影響で寝付いていたセイの具合が良くなった頃、入れ替わるように
総司が体調を崩した。
元々夏に強くない所に、数年に一度という酷暑と生まれたばかりの赤子の夜泣き、
相変わらず厳しい隊務が重なって、微熱と高熱が数日続いた。
見かねた近藤と土方の命で、京の中では格段に涼しい北山の麓に位置する
上賀茂の地で数日の間療養する事となり、セイや祐太も同行し、
護衛を兼ねた土方まで一緒に過ごす楽しい時間となった。

今年も夏の暑さが厳しくなった頃、特段大きな案件も無い事だし
里乃達を誘って行って来い、と土方が言い出したのは、
彼にとってもその休養が心休まる時間だったからかもしれない。

そんな事情で今年も上賀茂の宿へと避暑にやってきたのだが、その道中で起きた
一悶着がどうやら総司の中に鬱々とした感情を生じさせたらしい。
夕餉を終えた後で湯を使ったセイと里乃が部屋へと戻ってくると、
そこには正一だけが眠る祐太の傍らにぽつりと残っていた。
総司は少し散歩に行ってくると言い置いて出て行ったらしい。

「う〜ん・・・私が何かして怒らせちゃったかなぁ・・・」

「ちゃうやろ。あれは落ち込んでるんやないか?」

風呂上りの火照った頬に団扇で風を送りながら考え込んだセイに、正一が首を振った。

「湯に入っとった時も、塩を振った青菜みたくしおしおやったで」

「正坊!」

仮にも武士に対して口が過ぎると里乃が制したが、セイはそんな事はどうでも良かった。

「ちょ、ちょっと様子を見てこようかな」

半ば腰を上げかけながら、祐太を連れて行くか一瞬迷った。
一才を過ぎた祐太は健やかな眠りの中にいる。
抱き上げれば起こしてしまうかもしれない。
そんなセイの逡巡を見透かしたように里乃が祐太の髪を梳きながら笑った。

「祐坊の事はうちらが見てるし。なぁ、正坊?」

「ああ。こっちは平気やから神谷はんは大っきい赤子をあやしてきたらええ」

「もうっ、正坊は!」

里乃の言葉を背中で聞きながらセイは部屋を出た。





遠い時代から続く神域であるこの土地は、他の場所よりも神の御力たる光が鮮烈な分
相対する闇が濃くなるのかもしれない。
そんな事を考えながらしんと静まり返った宿の前庭を抜けて瀬音の響く方へと
セイは足を向けた。
足元は半月の明りでは覚束ない暗さだが、セイを誘うように川へ向かって
ふわりふわりと蛍が舞い踊っている。
さして広いともいえない前庭の先、川に面したその場所に見慣れた男が座り込んでいた。
セイの気配を察して振り返った表情が、困ったような笑みを浮かべた。


「見つかっちゃいましたか」

「総司様は見つけて欲しくなかったんですか?」

総司の隣に腰を下ろしながらセイが問うと、「どうだろう」と頼りない言葉を返して
川面へと視線を向けた。

「でも私が宿の敷地内にいるとは限らないのに、暗い中を出歩くなんて危ないですよ?」

「大丈夫です。慣れない場所に女子供ばかり残して、総司様が離れてしまうはずが
 ありませんから。余程の事が無い限り私達の様子のわかる場所にいるでしょうし、
 万が一余程の事があったのなら、私に何か言うはずですもの」

だからすぐ傍にいる事はわかっていたのだ、と微笑んだセイの言葉を聞いて
総司が黙りこくった。


闇に沈む川面に蛍が舞う姿が反射して、まるで数多の星が天空から落ちてきたかのように
あちらこちらで煌いている。
さらさらと響く瀬音は蛍の光が明滅する時に発する星の呟きとも思える。
しばし夢幻の世界に見入っていたセイの隣で総司が大きな溜息を吐き出した。

「ねぇ、セイ。こんな事本当に今更なんですけど。そんな事は重々承知してますけど、
 それでも・・・ね。貴女が私に嫁いだことは間違いだったんじゃないでしょうかね?」

唐突な話の内容にセイが瞳を見開いた。

「誤解しないでください、貴女に不満がある訳じゃないんです。
 むしろ私には過ぎた人だと思ってます。誰よりも大切だとも」

いささか早口で言葉は続く。

「ただ、私の妻だという事で貴女はいつも身に近づく危険を想定しなくてはいけない。
 今日のように白刃を振るう事も必要だ。私の傍にいれば、貴女はいつまでも
 心から安心して暮らす事なんてできない。
 私のせいでいつまでもその手に刃を握らせてしまう・・・」

自分の言葉に感情が昂ぶってしまったのか、前髪を握り締めるようにして
額に拳を押しつけた男の口元は固く噛み締められている。

心安い内輪での遊山だろうと、常に自分達に近づく悪意や害意に備えているのだと
先程総司の居場所を予想したセイの言葉で知れた。
誰よりも幸せになって欲しくて、だからこそ血の臭いなんて欠片もしない平穏な暮らしを
させてあげたいと思っていたものを、いつになってもそんな安寧を与える事ができない。
むしろ隊を抜けて自分の妻となった事で衰えた剣の腕で、まだ幼い我が子までも
守らねばならなくなったのだ。
沖田の妻という事実がいつまでも影を落とし、優しい女子を修羅にする。
それがたまらなく哀しく切ない。


言葉にしない総司の胸の内はセイにも伝わっていた。
入隊した頃から繰り返し自分に穏やかな暮らしを勧めていたのだから、
何を考えているかなど口にされなくても理解できる。
だからこそ、この不器用な男が愛おしくて仕方がない。

「先日、浮さんと松本法眼が来たんです」

突然違う話をされて張り詰めていた総司の心が少し緩んだ。

「また、来たんですか?」

声音には実に嫌そうな響きが混ざり、セイの口元を綻ばせる。
総司が不在の時を狙うかの間合いで現れる浮之助は、町人の風体でありながら
れっきとした一橋家の当主であり、本来なら顔を見るのも恐れ多い存在だ。
けれどひょんな偶然から近しくなった自分達には、身内のような親しさをみせる。

「その時にいまだに剣の稽古をしては、あちこちに怪我をこさえる私の事を
 松本法眼が嘆いて・・・」





「まったくよぉ、嫁にさえ行けばコイツの跳ねっ返りも落ち着いて、生傷も無くなると
 思ったものを、沖田なんざに嫁がせたのが失敗だったのか。
 今頃玄さんが目を吊り上げてるような気がするぜ」

はぁ、と大きな溜息を吐いた松本の言葉に、祐太をかまっていた浮之助が鼻を鳴らす。

「清三郎の親ならコイツの気質なんて百も承知だろうさ。それなら沖田以上に
 良い亭主はいない事ぐらいわかるだろうよ」

どういう意味だとばかりに松本から視線を向けられて言葉を続ける。

「仮にコイツがどっかの商家なり郷士なりに嫁いだとするね。今のご時勢、どこにでも
 身分を笠に着た馬鹿や、食い詰めて荒んだ浪人、弱者を踏みにじろうとする
 ヤクザ者がいるもんさ。それを前にしてコイツが大人しく黙っていると思うかい?」

松本は勿論、聞いていたセイ本人も首を横に振った。

「だろう? 元々そういう気性の上に、なまじ新選組なんて場所で剣技を
 身につけちまったんだ、大人しくしていられるはずが無い。
 丸腰で馬鹿共の前に飛び出す姿が見えないかい?」

テンテンと棒の先についた小太鼓の音を立てて祐太をからかう男がニヤリと笑った。

「沖田の妻を狙う馬鹿もいるだろうさ。だけど沖田の妻だからこそ、周囲に堅固な
 守りが築かれる。コイツも大切な者達を守る術を得られるし、丸腰にならずに済む。
 清三郎が清三郎である限り、戦う事をやめやしないだろうさ。だったらコイツの事を
 熟知していて、妙な枷をつけやしない沖田の所以上に良い嫁ぎ先なんざ
 無いんじゃないかい?」

「う〜き〜、うき〜〜〜!」

大人しく膝に座っていた祐太が浮之助の胸に手を突いて立ち上がり、
デンデン太鼓を寄越せと手を伸ばす。

「早く大きくなんなよ。お前のおっ母さんは暴れん坊だから、お父っつぁんだけじゃ
 手に余るだろうからな」

目の前にあった小さな額にコツンと自分の額を合わせてグリグリと押し付けると、
甲高い童の笑声が響く。
鈴の音のような声は、いつものようにその場の大人達を和ませた。






「そうですね・・・確かに浮之助さんの言う通りかもしれません。結局は出合った時から
 こうなる定めだったのか。いえ、私がそうなるように望んだのか・・・」

炎の中で出会った娘は多少お転婆だったにしろ普通の娘だったはずだ。
それを今の姿へと育てたのは自分かもしれない。
まるで“新選組一番隊組長の妻”として相応しい女子になるようにと。

改めて気づいた事実に総司が苦笑を漏らした。

「ああ、ただ・・・松本法眼が『それでもせめて土方なり斎藤なりが相手だったら、
 もう少し強く手綱を引いただろうに』と仰って笑ってたんですよ」

それを聞いた浮之助が 『だったらこのチビもいない事になっちまうけどな』と
意地悪く呟き、『松本はお前なんざいらないってさ』と祐太に語りかけた途端、
松本が大慌てで前言を撤回した。
一際強く吹いた川風に袂を揺らしたセイが、その時の松本の慌てようを思い出して
可笑しそうに笑う。
対して総司の頬が小さく膨れた。

「私以外の人の妻になるなんて、絶対に駄目です」

漠然とした誰かの元にセイが嫁ぐのを考える事はできても、確かな像を結べてしまう
相手となれば、それは許せるものではないのだ。
我侭だと承知していようと、機嫌が下降する事を止められない総司を宥めるように
鼻先に近づいた蛍が点滅して柔らかな灯りを投げかけた。

「私は総司様の妻です。他の誰のものでもありません。
 最初に変な事を言い出したのは総司様じゃないですか」

蛍の光とセイの柔らかな声音が心に生まれた棘を溶かしていったが、
まだ総司にとって確かめたい事が残っていた。


「でも、聞きたい事があるんですけど」

「はい?」

「貴女、着物に手を加えてますよね?」

昼間の斬り合いがなければ総司にしても気づかなかった事だが、セイの着物の
前袷が浅くなっていて、剣を使う時に大きく足を踏み出せる工夫がしてあった。
近頃神谷の物腰がしとやかになった、と言っていた仲間達の言葉の理由が
ここにあったと思えば総司にしても呆れるばかりだ。

「ええと・・・」

言い訳を考えているのか、視線をあちこちに巡らしているセイに続けて問う。

「それにどうして貴女が捕縛紐なんて持ってるんです?」

襲ってきた男達が総司とセイに叩きのめされ地に伏せた時、巡察に出るのでは
ないからと捕縛紐を屯所に置いてきた総司が困惑する横で、
セイが自分の懐からそれを出してさくさくと男達を縛り上げたのだ。

「ああ、あれは永倉先生が持って行けと」

「はぁ? 永倉さん?」

「はい。使わないならそれに越した事は無いけれど、念の為にって」

(総司と神谷が揃って遠出だ。どっかの馬鹿がちょっかい出すかもしれねぇだろ?)

永倉なりの気遣いは結果として無駄にはならなかった。


「まったく・・・みんなして貴女を甘やかすんですから」

永倉が総司ではなくセイに渡したという事は、いざとなればセイが総司の隣で戦う事を
容認しているという意味だ。
きっと永倉だけでなく、他の誰もが同じ思いでいるのだろう。
困った事に、中で最もこの女子に甘いのは・・・。

「貴女に枷をつけようとは思いませんけど、私のいない場所では
 絶対に無茶をしないでくださいね」

誰より甘いと自覚している男が自嘲気味に呟き、セイの腕を引いて抱き締めた。

「無茶なんてしませんよ」

セイが小さく笑う。

「普段は隊の皆がとても心を配ってくれてますし、今日みたいな時だって
 結局は総司様が守ってくださるじゃないですか」

「え?」

「守ってくださったでしょう?」

「気づいてたんですか?」

腕の力を緩め、総司がセイの顔を覗き込んだ。

「当然!」

セイが得意げにツンと顎を突き上げた。


昼間、襲撃者達を相手にした時だ。
構えた相手の身ごなしから瞬時に相手の力量を計った総司は、最も腕が劣ると
判断した敵がセイと対峙するように動いたのだ。
意地っ張りな妻に悟られないようにしたつもりが、気づかれていたとは驚くばかりだった。

「ふ、ふふっ」

総司の唇から笑いが漏れた。

「参りました。さすがは新選組の阿修羅と呼ばれた人です」

「伊達に剣豪・剣聖と呼ばれる方々に稽古をつけていただいたわけではありません。
 相手を観察し、その技量を推し量る力は養わせていただきました。
 だからこそ今の自分の力量も冷静に判断できます。
 剣に命を懸けている真の武士には勝てないと」

一瞬だけセイの瞳に悔し気な色が過ぎったが、すぐに強い意志が取って代わった。

「総司様や祐太を悲しませるような事はしません。大丈夫、ずっとお傍にいます!」

淡い蛍光の中に浮かんだ妻に、月代の弟分の姿が重なった。

『ずっと沖田先生のお傍にいますっ!』

威勢の良い声音が総司の耳朶に響く。
(清三郎が清三郎である限り変わらない)
浮之助の言葉に深く頷く自分が居る。
きっと十年経っても三十年の先でもこの人は変わらない事だろう。
それが嬉しくて、再び抱き締める腕に力を込めた。




さらさらと瀬の音は絶える事が無い。
ふたりで重ねる時間もこの音の如く絶えぬようにと祈ったのはどちらだったか。
川面の星と天の星の狭間は甘やかな囁きで満たされていった。